Song of the Sea/うみのうた

Four stories on the horizon of loss: the slipping of memory, family, and place, across bodies of water and expanses of time

Collage with rectangular cuts of pink roses and fractal patterns over blue and white waves.
1Akiko Ostlund, Umi No Uta 1, 2022.

お父さんのお母さん

もうずいぶん時間が経っていた。

朝食を終えたあと、軽い食後の散歩のつもりで家を出た。

朝の涼しい空気が都会の排気ガスにかわり、八月の太陽が真上からわたしのおかっぱの黒髪をじりじりと灼いた。

気付くと阪神高速の反対側にいた。ということはついに市外に出てしまったということだった。それ以外には何も、自分たちがどこにいるのか、どうやったら家に帰れるのかわからなかった。私は9歳で、おばあちゃんと一緒だった。私が一人で迷っているのではなく、そこにおばあちゃんがいるということが、事態を悪化させていた。

おばあちゃんは、わたしの方を振り向きもせずどんどん歩いた。ママに電話をしたいから、ちょっとだけ電話ボックスに立ち寄ってもいい?と何度か聞いてみたが、返事はなかった。

両親はいったい何を考えて九歳の私を子守りにつけておばあちゃんを外に出そうなどと思ったのだろう。あるいは何も考えていなかったのかも知れない。当時私の両親は今の私より十歳以上も若く、母と重度のアルコール中毒の父がまだ小さい子供を二人育てながらなんとか会社を経営し、その上におばあちゃんを引きとったばかりだった。

おばあちゃんは先週大阪に着いた。九州で長い間叔父さん夫婦と同居していたのだけれど、痴呆が進んで叔父さん夫婦が世話をしきれなくなったので、しばらくわたしたちと暮らすことになったらしい。

空港で見たおばあちゃんは痩せていて、髪がもうほとんど残っていない、おだやかな顔つきをしたおばあさんだった。九州からいちども出たことのないおばあちゃんは、潮風のせいなのか浅黒くて深い皺だらけで漁師さんのような顔をしていた。

帰りの車で、おばあちゃんがたぶん車酔いをしたのだろう、誰にも言えずに後部座席で黙って嘔吐をのみこんでいたら、それに気付いた父が「ちゃんと言わんとだめやろも。」と子供にするみたいにおばあちゃんを叱った。

おばあちゃんは戦時中に育ち、戦後の貧困のなか四人の子供を産んだ。あまりにも貧しかったので、四男は養子に出した。

三男の父も、中学を出てすぐ働きにでた。

「家族に内緒で高校入試を受けたんや。結果を見に行ったら合格しとったけど、家が貧しすぎて高校なんか通わしてもらえんかったからな、中学でてすぐ仕事しよったんや。」父は酔うとよくその話をした。

わたしたちが歩きまわっていたのは、もつれ合いながら縦横無尽に広がる高速道路と、それを見上げるようにネジ工場や溶接工場がひしめきあう、大阪の軽工業地帯だった。工場から聞こえる騒音が絶えず、空気は常に金属のような味がした。

おばあちゃんの痩せた背中を早足で追いかけながら、わたしはどうやって大人の人に助けてもらおうかと考えていた。

タバコを吸っている作業着のおじさんの群れと、黄色いコマツのフォークリフトを通り過ぎた途端に、私たちは住宅街に出た。おばあちゃんはその中の一軒に近づき、まるで毎日そうしているかのようななめらかな手つきで外側から、内側についている錠に手を伸ばし、黒い鉄門を開けた。

すごいなあ、自分の名前も息子の顔も忘れてしまったのに。

おばあちゃんはとても器用な人だったと父がよく言っていた。

違う時間、違う場所にいるおばあちゃん、たとえば二十代そこそこで、海の近くのぼろ家で、しゃきしゃき料理をしたり繕い物をしたりする、どこにもなんにもないけど、何とか子供を育ててるおばあちゃん。その人は、まだおばあちゃんのなかのどこかに生きているのだろうか。

知らない人の家の庭にずんずん入っていくおばあちゃんの後を追いかけ、どうやっておばあちゃんを説得して大変なことになる前にここから脱出しようかと頭を高速回転させていると、最悪なことに、植木のあいだから犬がでてきた。

その犬は、まあ当たり前のことだがものすごい勢いでおばあちゃんに吠えている。よく飼い主がいう「あ、この子、いつもこうなんです。だいじょうぶですよ。」という吠え方ではなくて、非常事態用の、ぜんぜんだいじょうぶではない方の吠え方で。

流血はまぬがれない。多分けっこうな騒ぎになったのち、救急病院と警察署をはしごするはめになるだろう。

犬がいよいよおばあちゃんに飛びかかろうとして、わたしが歯を食いしばった瞬間、おばあちゃんはぐんと一歩踏み込み、「これ!」と声をあげながら右手を犬の頭の上にかざした。

驚くべきことにそれをみた犬は後ずさりし、何か気味悪くぶつぶつとつぶやくおばあちゃんから目をそらし、吠えるのをやめた。

犬は人の抱く恐怖を嗅ぎとることができると何かで読んだことがある。

犬は人の羞恥心を嗅ぎとることも出来るのだろうか。

犬は悲しいものを見たとき、いたたまれなくなったりするのだろうか。

おばあちゃんが満足して自ら出て行くまで、その犬は自分の飼い主の庭を行ったり来たりする私たちをそっとしておいてくれた。

おばあちゃんはいつも迷いがなく自分のすることは自分でぜんぶ決めた。でもわたしは、痴呆になったおばあちゃんしか知らないので、もともとおばあちゃんがそういう人だったのかどうかはわからない。

おばあちゃんと一緒に住むのは大変だった。ひと月もすると、おばあちゃんがお腹が空いただの、私がいつ自分の家へ帰るのかだのと繰り返すのにうんざりしていた。

「もう随分遅くなったというのに、この子はまだ家に帰らんね。この子の親はどこで何をしとるんだろうね。」

おばあちゃんがこう言うと、私は毎回激怒した。ただでさえかわいい赤ちゃんの弟と母の取り合いをするのが大変だったというのに、おばあちゃんは、私たち子供二人と、アル中のお父さんを合わせた十倍くらい手間がかかる。こっちは五分静かにしていたら、母に私が生きていることさえ忘れられてしまいそうで、毎日ひやひやしながら生きているというのに、なにが「あんたのおうちはどこね」だ。なにが「いつまでここにいるつもりね」だ。そんなの、こっちだって知りたいよ。

「おばあちゃんの頭は腐っとるんや!おばあちゃんなんか消えてしまえて、みんな思ってるんや!」私は顔を真っ赤にして、最終的に怒った母に子供部屋に引きずっていかれるまで、おばあちゃんにそう怒鳴り散らした。

おばあちゃんは、その数年後、九州の老人ホームで亡くなった。

それが十二月一日だったことは覚えているのに、おばあちゃんの名前はなぜか思いだせない。

今でも時々思う。

あの時わたしが九歳でなければ、

よかったのにな。

Collage with bar of pink and blue gem pattern over dark blue waves.
Akiko Ostlund, Umi No Uta 5, 2022.

お母さんのお母さん

最後に会ったのは、わたしがいよいよ日本を離れるというときだった。

ビザの手続きで大使館に行ったついでに、フィアンセを連れておばあちゃんの家に立ち寄った。おばあちゃんは、玄関に立つ私のフィアンセを見上げると、丁寧にお辞儀をして、どうぞ、と彼を家の中に招き入れた。

むかしから変わらないエプロンの下で、おばあちゃんの小さい足がぱたぱたと音をたてる。

この夏結婚して、それからはずっとアメリカに住むよと報告したら、おばあちゃんは「あぁ、ずっとね」とまるでその言葉を咀嚼するように、なんども頷いた。

おばあちゃんは考えていることをあまり顔に出さず、いつもあるものをあるがままに受け入れる-レモンはレモン、イルカはイルカ、アメリカ人に連れられて日本を離れる孫娘はアメリカ人に連れられて日本を離れる孫娘-物事は、それ以上でもそれ以下でもない、いいも悪いも、悲しいも嬉しいもないと思っているようだった。

そうこうしているうちに母が大阪から新幹線でやって来たので、みんなでわいわいとお昼ご飯を食べた。

「カムカムウエルカム!」

食後のお茶をいれながらおばあちゃんが唐突に叫んだ。

テレビのバラエティ番組か何かで聞いたのかなあと思い、どこでそんな言葉を覚えたのかと聞くと、おばあちゃんは、昔戦直後に闇市で働いていた時に、外国人に向かって言っていたんだよと言った。「え?お母さん闇市で働いてたの?闇市で何売ってたの?」初めて聞いたのだろうか、母がびっくりした様子でおばあちゃんに尋ねた。

「あぁね、いろいろよ」説明するのが面倒くさそうに、おばあちゃんは答えた。

闇市で働く、おばあさんではない、私のおばあちゃん。私はその光景を想像してみようとしたけれど、そうするにはあまりにも知らないことが多すぎることに気づいて、愕然としてしまった。

闇市って誰が何を売り買いする所だったっけ。その時おばあちゃんはいくつでどんなルックスをしていたんだろう。アメリカ軍は、こんないなかにまでわざわざ爆弾を落としに来ることがあったんだろうか。

そこまで考えたところで、私の思考は行きどまりにぶつかった。

苦いお抹茶の粉が音もなくお茶碗の底に沈んでいくのをしばらく眺めた。

私たちがおばあちゃんの家を去る日、おばあちゃんは私に何枚か着物を持たせてくれた。もうかれこれ五十年も大事に取っていたものなのに、私の母から私が縫い物をすると言うのを聞いて、私に全部あげてしまうことにしたらしい。

おばあちゃんは、たくさん積み重ねた一番上にある着物をとって、弟さんが亡くなった日のことをふいに話し始めた。

「サイレンが鳴り始めて空襲がはじまるでしょう。そいたらみんな急いで近所の人が掘った防空壕の中に逃げるんだけども、おばあちゃんは弟のこと待って、入り口のところに立ってたじゃんね。仕事から帰って来るとこだったもんでさ、で、やっとこっちに向かって走ってくるのが見えた、あぁよかった、はやくいそいでと思ったら、おばあちゃんの目の前で撃たれて死んじゃった。だいぶ若かったよ。死ぬにしても働くにしても若すぎたんよ。この着物はね、おばあちゃんがその時に着てた着物。ここに出したのも全部持ってきなよ。旦那さんにひざ掛けでも作ってあげなね。」

おばあちゃんから戦争の話を聞いたのは、これが最初で最後だった。

ずいぶん後になって調べてみたら、

浜松市は1944年に27回の空襲を受けて焼け野原になっており、1944年から1945年までの1年だけで、人口は19万人から8万人に減少したのだそうだ。

わたしは、おばあちゃんの中庭が大好きだった。屋根の梁からおじいちゃんが作ったブランコがぶら下がっていて、晴れた日にはつやつやと光る青い屋根瓦が、まるで波打つ海のように見えた。私はよくおばあちゃんと一緒に縁側に座って、足をぶらぶらとさせながら、手入れの行き届いた庭でおばあちゃんが育てた金柑を食べた。

盆栽のような小さく整った木に、つやつやした濃い緑色の葉っぱと、よい匂いがする黄金の小さな果実がたくさんなっている。「皮だけ食べなね。」おばちゃんは毎回そう言った。「皮だけだよ、あきちゃん。中身は酸っぱくて苦いからね。そんなのは誰も食べたくないもんね。」

おばあちゃんは、私が二十代後半になったあたりから痴呆の症状が出始めて、96歳の時に老人ホームで亡くなった。私は日本を出た日から一度も帰郷することはなかったので、痴呆が始まった後に、おばあちゃんの心から何が去って何が残ったのかを、知らない。

うみのうた

海は広いな大きいな
月が昇るし日が沈む
海におふねを浮かばせて
行ってみたいなよその国

気づけばずいぶん遠くに来たものだ。
鏡の中の私は最近、ずいぶんくたびれた顔をしている。
火山でできた小さな島国にある、ネオンにきらめくせわしない大都市に育った私は、まだ私の中のどこかにに生きているのだろうか。今の私は海から何千キロも離れた、どこまでものっぺりとひらべったい、いろんなことがあいまいではっきりしない街に住んでいる。

夫の母

私の夫の家族は、私を大事にしてくれた。40人以上の家族が、お互いの家から30分もしないところに住んでいる。

みんな自分たちの親や親族から離れて、もっと大きな街で自分を試したいと思わないの? と聞くと、「僕たちはお互いの世話を焼くのが好きだからね。」と夫は答えた。

夫の家族は、実際私の世話もよくみてくれた。義母は当時70代半ばだったはずだが、とても人付き合いの良い、アクティブな人だった。義母はよく私を湖に連れて行ってくれたり、モールでジーパンを買ってくれたり、とにかくアメリカンなものをいろいろ見せてくれた。

「パンケーキを見たことがある?」

「スタートリビューンに載っていたソバのレシピを切り取って持ってきてあげたわよ」

家族の集まりがあるたび、義母は、私が持ってくる料理にとても興味をしました。

「ほら見て。アキコが、日本風シーザーサラダを持ってきたわよ。」

「アキコが作った日本風ラザニアはおいしいわよ。」

義母はどんなに本格的に作った料理も、私の料理は全て日本風と呼んだ。

私のエキセントリックなエキゾチックさに興味津々な義母はまた、わたしを育成することにも労力を注いだ。

私は義母の頭の中では、例えば家の中にある一番大きな窓をどんなカーテンの組み合わせで飾り立てるか、とか、庭の花壇にどんな色の花をどういう風な組み合わせで植えるか、ということと同じ位置にあり、義母は暇さえあれば私と私の人生をプロデュースすることに励んだ。

娘がお腹にいる時、義母は私の娘の名前を、キムにしようと提案した。「私が知ってるアジア人の女の人は全員名前がキムなのよ。」義母は小学校の先生みたいな笑顔でそう言った。

アメリカでの最初の5年間は皮肉笑いと苛立ちの繰り返しで、わたしは壊れた振子のように不安定に揺れ続け、元々の自分がどんな人間だったのかが思い出せなくなっていた。

義母の物忘れが悪化して、痴呆の症状を見せ始めたのは、義父が亡くなった辺りからだった。

夫はさいしょ、週に一度、義母が独りで住む両親の家まで義母の様子を見に行っていたが、それが次第に頻繁になり、何ヶ月か後私たちのご近所さんが引っ越しされるとすぐ、夫は彼らの家を買い、そこに義母を住まわせた。

その頃にはもう義母は、かなりの錯乱状態にあった。義母は自分の記憶力が日に日に衰えていくのを感じていて「どんどん流れていっちゃうのよ。」と不安げによく言った。

義母のキッチンにあるカレンダーには、もはや何の役目も果たさない丸印や矢印が、あちこちに飛び交うように書き込まれ、余白が真っ黒になっていた。義母は当時、自分が自分であるところの所以、現実世界におろす錨を失うまいと必死になっていたのだと思う。

義母が三軒隣りに引っ越してからは、お菓子を持って毎日顔を出した。義母の新しいキッチンに二人で座り、義母の気持ちを落ち着かせるために、その日の予定を話した。

「今日はウェンディが遊びに来ますよ。」

「ウェンディがここに遊びに来るの?」

「はい」

「何しに来るの? 私はどうすればいいの?」

「ただ遊びに来るだけです。今日は天気がいいので、デッキに出て、2人でコーヒーでも飲んだらいかがですか?」

「誰と誰が一緒にコーヒーを飲むの?」

「ウェンディとお義母さんがです。ウェンディがお昼過ぎに遊びに来るんです。」

「何をしに?」

私が子供を迎えに行かなければいけないぎりぎりの時間まで、私たちは同じ会話を繰り返し、カレンダーに印をつけ、数時間を過ごした。

誰もいないと混乱が加速するのだろう、義母は独りになるのをものすごく怖がった。私は義母の家を出る時、追いすがる義母を自分から引き剥がすようにして、走って家を出なければならなかった。

ある午後、いつものように義母の家を走って出て行くと、バスローブ姿で義母が私を追いかけてきた。風の強い日で、振り向くと、義母の銀髪が狂ったように風に踊り、バスローブがはだしのくるぶしのあたりで、船の帆のように音をたててはためいていた。

義母は、まるで嵐のなか沈没する船に乗っている人のような絶望的な切実さで私に向かって叫んだ。

「私はいったいどうすればいいの!!」

次に会った時は、義母はもうパニック状態にはいなかった。住み始めた痴呆患者専用の豪華な老人ホームの悪口を、あれもこれもと話してくれた。

「ダイニングでさっきお昼ご飯を食べたでしょ?あなたの頼んだサンドイッチはどうだった?」

ダイニングホールで食べたローストビーフのサンドイッチとライムのシャーベットは、本当のところ涙が出るほどおいしかったけれど、私は間髪入れず、「う〜ん、ローストビーフはぱさぱさで、シャーベットは安い離乳食みたいでしたよね〜。」と答えた。義母はそれを聞いて、子供のように声をたてて笑った。

私たちはその一連の会話を、私が帰らないといけないぎりぎりの時間までなんども繰り返し、受付の人が何事かと様子を見にくるくらいの大声でげらげらと笑った。

Collage with rectangular cuts of pink roses and fractal patterns over blue and white waves.
Akiko Ostlund, Umi No Uta 6, 2022.

湖畔

みんなで湖に行ったことがある。もう何年も前の、夏の終わりだった。夫の両親の家に遊びに行った時に、お天気がいいから、お昼ご飯を湖で食べようかといって、みんなで近くの湖に出かけたのだったと思う。

義父はまだ生きていて、杖を使い始めたばかりだった。義母は義父のすぐとなりに立った。

駐車場から砂の湖畔までは、少し距離がある。義母は義父の歩幅に合わせてゆっくりと歩いた。私たちの2歳の息子は、石ころや木の枝を拾いながら駐車場を子犬のように走りまわった。それを追いかける夫を笑いながら、私はサマードレスに八ヶ月のお腹を抱えてあひるのように体を左右に揺らしながら前へ進んだ。

湖畔に着くと、私たちは素足を熱い砂に埋めて、青と白のストライプのパラソルの下で遅い昼食をとった。

浅瀬で小さい男の子たちが歓声を上げながら水の掛け合いをしている。

多分十代くらいの子たちが、遠くでビーチバレーをしているのが見える。ビキニ姿で細い足をした女の子たちが、体の前で腕を組みながら、顔をくっつけて内緒話をしている。ベビーカーを押しているお母さんが、ちっちゃい女の子が砂でお城を作っているのを見ている。

夫が息子を連れて湖に向かった時、私は車にサングラスを忘れてきたことを思い出した。夫と息子を水の中に探そうとしたけれど、湖の表面は、しわくちゃの金箔のようで、じっと目をあけて見ていることができない。私は日差しに降参し、目を閉じてデッキチェアに出産間近の睡眠不足でむくんだ体を横たえた。

睡眠は黄金の蜂蜜のように甘く重い。

オレンジ色の小さな太陽が、まぶたのうらで踊っている。

私の体は沈み始め、そのあかるい海中のような、夢とこの世のあいだのような場所で、わたしはその光景をみた。

ノートのページのように

私たちは全てここにいる

ベビーカーの中の赤ちゃんも

砂の城を作る幼児も

怖いもの知らずのティーンエイジャーも

へとへとの若いお母さんも

いつかのわたしはみんなここにいた。

この瞬間もいつかは過ぎてしまうけど、今日の私は明日の私の中に生き続ける。

なぜなら私たちは、無数の過去のかがやきを抱く万華鏡なのだから。

そして風のように、頬に触れては容赦なく過ぎ去る時間は、決して失ったものなんかではない。

【完】

オストランド亜希子です。

わたしはいろいろなメディアを使う芸術家として生計を立てているのですが、二三ヶ月前、友人であるシャオルーからメールを受け取りました。時間をテーマにちょっとしたエッセイを書いてみないか、という内容のメールでした。

「えーいいよー!」わたしはすぐにそう返信しました。

コーヒーをドリップしたり、

ポップコーンをつまんだり、

アトランタをみたり、

かと思うともうひとつのブラウザでアントロポロジーの新着サマードレスを物色したり、

おもむろに靴下を脱いでみたり、

そのついでに足にローションを塗ってみたり、

次に美容室に行った時に髪の毛をどう切ってもらうかを考えたりしながら。

でもエッセイに何を書きたいのか、何だったら書けそうなのか、というかそもそもそんなに何ページも何ページも字を書いたりできるのか。そんなことはひとつも考えずに。

見よう見まねで七転八倒しつつ、エディターの方々-リズ、さあちゃん、シャオルー、そしてエミリーに散々お世話になりながら、なんとか書き終えました。

読んでいただいて、ありがとうございます。

2022年6月24日

ノースミネアポリスの自宅にて。

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Author
Akiko Ostlund

Akiko Ostlund is a visual artist, performance artist, teaching artist, curator, and an activist who lives and works in Minneapolis, Minnesota. A native of Osaka, Japan, she uses poetry, music, dance, collage, found objects and shadow puppetry to tell stories that reflect her time, and a narrative of immigrant women of color that is often underrepresented in white eurocentric society. …   read more